当時は、"マハラジャ"、"キング&クイーン"、"ラジオシティ" 等のバブリーなディスコから、"ゲネシス"、"クー" などの所謂クラブ・ディスコへと時代が流れ、それ以降ポツポツと大阪にもコアなクラブがオープンし始めた。
そんな10代の頃、アメ村に"アンテナ"という洒落たクラブがあり、そこで週に一度ほどレゲエが廻されていた。ヒップホップダンスにハマっていた仲間に連れられ遊びに行き、ラップのようなレゲエがダンスホールスタイルである事にやっと気づいた。ついでに言うと、そこへ毎週のように遊びに来ている綺麗な姉ちゃんが"チエコ・ビューティー"であることにも気づいた。
雑居ビルの地下の店"セント・アンズ"から聞こえてくるのが、レゲエであることを知り、週末の夜に軽いノリで遊びに行った。エントランスでサングラスのラガマフィン(おそらくチャイ氏)に入場料を払い、フロアの扉を開くと衝撃だった。音を体感するという事を知った。可愛い姉ちゃんや、ハードコアな兄ちゃんがいっぱいだったが、セレクターが次々に繋ぐベースの効いたリズムに朝まで没頭した。
"シャバ・ランクス"というDJの野太い声を覚えた頃、また若者の間では"ナイトクラビング"が最先端の遊びだった頃、大箱"ジョグリン・シティ(現 I to I)"がオープンした。ジーパンの裾が揺れるほどの低音とツイーターからのハイハットが頭の上から降ってくるドンシャリの爆音"キラサンサウンドシステム" に圧倒された。そこに通いだした頃には、イッチョマエに"マイヤーズコーク"をオーダーするぐらいには成長していた。満タンの箱(外には長蛇の列)のなかで、黄金期を迎えていた"Penthouse"レーベルがメインタイムで次々にプレイされ、テーブルの上には何故か空いたビール缶を積み上げていくのがルードボーイの楽しみであった。
"ジャパニーズ・レゲエ"を知ったのもこの頃で、"ブギーマン"はもちろん、"Red Prince" crewや "Terminatore"crew のDJによるラバダブスタイルにライターをつけ始めたのもこの頃である。 ダブプレートというモノを知ったころ、長堀の消防署裏あたりの長細い店"キャット・フィッシュ"あたりでジョグリンシティーの週末ではあまり経験できなかった、もっとコアな夜を味わう。そこでプレイしていたのが"Earthquake (現 Rock Desire)の"クリリン"であった。その次の日には、セレクターになることを目指して、とりあえずアメ村あたりのレコ屋を片っ端から回っていた。
2007.04.13:MJR Kyara「SPAM日記」